白紙委任の約束

written by 人間性の痕 様

≪今日、仕事が終わったら会えるかな≫
<うん。シモンの家に行けばいい? 急ぎの用事なら今聞くよ?>
≪いや、きみの顔を見て話したい≫
<わかった。仕事が終わったら連絡するね>
≪会社まで迎えにいくよ≫

そんなメッセージのやりとりをして、私は今シモンの部屋にお邪魔している。
目の前に並べられたお皿からほこほことあがる湯気に思わず口元が緩む。
帰り道、一緒に屋台でテイクアウトしてきた料理たちだ。

「シモン、用事ってなに?」
「まずは腹ごしらえしてからにしよう。はい、お箸」
「わ、ありがと。いただきまーす!」
「いただきます」

ふたりで向かい合って手を合わせる。
少しだけ視線を動かして壁の時計を確認すると、夜の九時をまわっていた。

「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」

もしかしてこの時間まで待っていてくれたのかな。
あたたかな食事とシモンの心遣いで心までほかほかになった。
嬉しくて思わずにへにへしながらご飯を頬張っていると、とても穏やかな色をしたシモンの瞳と目があった。

食器を片付け終わりお茶をふたりで飲んでいると、ようやくシモンが本題を口にした。

「きみにお願いしたいことなんだけど」
「なに?」
「ひとつめはこれ」

そう言ってシモンが本棚から持ってきたのは原稿用紙だった。

「今度、本を出版することになったんだ。これはその原稿」
「えっ。すごいね。おめでとうシモン!」

彼が作家デビューなんて自分のことのように嬉しい。
夢中になって拍手していると、シモンは緩やかにまなじりを下げて私の鼻をちょんとつついた。

「ありがとう。でもなにぶん初めてのことだから色々と悩んでしまってね。よければ読んで感想を聞かせて欲しいんだけど」
「今?」
「うん、今」

彼が悩むなんて珍しい。でも確かに初めてのことは誰でも緊張するものだ。
少しの違和感を覚えながらも素直に頷くと、シモンはにっこりと笑った。

「ぜひお願いするよ」
「でも私で役に立てるかな? 科学的な知識が必要だったりすると困っちゃうかも」
「きみだから読んでほしいんだ。専門的な知識はなくても大丈夫」

読めばわかるとの彼の言葉におされてぱらりと原稿をめくる。
新品の紙とインクのツンとするような匂い。本当に出来たばかりの原稿なんだ。
彼の本の読者一号になれた喜びと、自分に理解できるかわからない不安で指先が強張る。
一マス一マスに整然と整列した達筆な文字達を追いかけながら、恐る恐る彼の世界へと足を踏み入れた。

読んでいくとすぐに彼の言わんとしていることを理解した。
驚くべきことにシモンに渡された原稿は恋愛小説だった。
さまざまな学問に精通し、絵画や映画にも造詣が深い彼がいよいよ文壇デビューとは。
一体何を目指しているのかちょっと気になる。

最初はあちらこちらとっちらかっていた思考が、物語を読むことだけに集約していく。
最初の数行で私の心をがっちりとつかんだ文章は、シモンのように理知的で静かだけれど
読んでいくうちにするりと頭の中に入ってきていつの間にか登場人物の心理描写と同調するようになっている。
テンポの良い音楽のような味わい深い語りだった。

読み進めていくうちに、不思議な懐かしさがこみあげてくる。既視感と言うべきか。
首を捻って考えこんでいると、とんとん、と軽く指でつつかれて我にかえった。

「難しい顔をしてるね」

私が本に夢中になっている間にコーヒーを淹れてくれたらしい。
空になったお茶の湯飲みのかわりに、スッとあたたかな湯気がたつコーヒーを差し出される。
ありがたく受け取って口をつけると、シモンはわずかに首を傾けて私を見た。

「面白くなかったかな」
「そんなことない、すごく面白いよ。主人公の価値観とか共感できるし……考えていたのはそういうことじゃなくて」

コーヒーの苦みが喉元を通りすぎると、興奮していた気持ちがゆるやかに落ち着いていった。

「なんでだろう。どこか懐かしいなって」
「おや。バレたか」
「へ」

反射的に顔をあげると、いたずらが成功した子供のような輝きを浮かべる墨色と目があった。
(んんんん?)
なぜだろう。なにやら嫌な予感がする。

「ま、まさか」

私は慌てて原稿を読み直す。
主人公と相手役は作中、いろいろなところへ出かけていた。
桃の花の中でサイクリングをする春。儚く力強くその生命を煌めかせる蛍舞う夏。落ち葉を踏みしめてワイナリーへと向かう秋。
しんしんと降る雪の中、ふたりで身を寄せ合い未来の約束事をした冬。
これも……これも……これも!
記憶のパズルとかっちり当てはまるものばかり。
忙しなくページをめくる私を、シモンはくすくすと笑いながら見つめていた。

「もしかしてこの主人公のモデル、私?」
「正解。事後承諾になってしまったけれど、無許可はまずいだろう? だからきみに目を通してほしかったんだ」
「な、な、なん……」

シモンは先ほど何と言っていただろうか。出版する? この本を? 本気で?
きっと今の私を漫画に描いたら、頭の上で富士山が爆発したような状態になっていただろう。
もしくは宇宙に飛ばされた猫のような顔をしていたかもしれない。
最初に感じたのは羞恥、次にとんでもない事態になっていることに理解が追いついて一気に体温が五度ぐらい下がった気がした。

「まずかったかな」

赤くなったり青くなったりしている私の顔を、気遣わしげにのぞきこむシモン。
口調こそいたわるような響きだが、その瞳にはごまかしきれない愉悦があった。
(本当にこのひとはとんでもないいたずらばかりして!)
口をぱくぱくと開けたり閉めたりして二の句を告げずにいると、彼はため息をついて私の手からそっと原稿用紙をとりあげた。

「やっぱり事前に承諾は得るべきだったね。不快にさせたなら謝るよ」
「ふ、不快っていうわけじゃ……」

ずるい。そういう聞き方はずるい。
そしておそらくシモンは分かってやっている。
彼がわずかに形の良い眉を下げ、ゆるく首を傾ける。
ソファーに腰かける私を見上げるように、フローリングに片膝をついてじっと見つめるその仕草。
リビングの電灯が映り込む黒目がちな彼の瞳が濡れたように光る。……白旗を上げざるおえなかった。

「か、返して」
「怒ってたんじゃないの?」
「怒ってない。だから返して」
「続きを読んでくれるんだ」
「読む」

むぅっと膨れたまま原稿を受け取る私の頬はきっと茹でダコのように赤い。
さりさりと私の頬を軽く撫でたシモンは、流れるような仕草で隣に腰を下ろした。
私の肩に顎を乗せて、一緒に手元の原稿に視線を落とす。私と彼の距離が一瞬でゼロになった。
鼻先をかすめるシモンの髪がふわりと香る。
(においまでカッコいいってどういうことなんだろう)
ここで露骨に反応するのはシモンの思うツボのようで悔しい。
油をさしそこねた錆びた玩具のような動きになる私を笑う声の熱を追いはらうように、口をこじあけた。

「……この原稿、私がイヤだって言ったらどうなるの?」
「残念だけど捨てるしかないね」

シモンの口調はちっとも残念がっていなかった。
まるで「明日は晴れだね」なんていうのと同じくらい気負いのない言い方。
こんな大作を書いておいてまるで興味がないような。

「だめ。捨てるのは絶対だめ」
「それじゃあ許してくれる?」

それとこれとは別問題だ。
あらためてパラパラと原稿に目を走らせた。ひとつひとつの出来事を見ればかなりのフェイクが入っている。
主人公の性格だって、シモンに指摘されなければ「この考え方わかるな~」ぐらいにしか思わなかった。
でも私とシモンのことを知っている勘の鋭い人ならば気づいてしまうかもしれない。具体的には、ユイとか、アンナさんとか。
特にアンナさんにはデートのことを報告したり、アドバイスをお願いしたこともある。
もしこの本が彼女の目に留まる機会があったら……
絹のように艶めく彼女のアメジストの瞳が生温い感情で細められるさまを生々しく想像してしまった。
(む、むり。絶対無理)
答えに窮した私は強引に話題転換をはかった。

「そう言えば私への用事ってこれがひとつめって言ってたよね。ふたつめもあるの?」
「うん。最初のページに書いてあるんだけど気づかなかった?」
「?」
「これもきみの使用許可が必要だと思って」

言われるがままに一ページ目に目を落として、そのまま思考が停止する。
本のタイトルが私の名前だった。

「だめーーーーー!」

百歩譲って物語はこのままでもいいとしよう。でもタイトルだけはだめだ。恥ずか死ぬ。
シモンは何を考えてるんだろう。私をからかうことに全力を注いだ結果、才能の不法投棄をしているようにしか思えない。

「作中にこんな名前のキャラクターひとりも登場してなかったよね!?」
「実はプロット段階では主人公の名前もきみと同じだったんだ。途中で思うところがあって変更したんだけど」
「思いとどまってくれてありがとう! あなたの選択は正しいよ!」
「そうかな。だいぶ悩んだんだよ。せめてタイトルには名残をとどめていたかったのに」
「まるっと変更してもらって大丈夫です」
「きみはときどき意地悪を言う」

彼の低い涼やかな声が耳元をかすめる。ピャッと全身に鳥肌が広がった。

「シモン!」
「そんなに言うならやめておく。考えてみたら作り話であっても他の男に口説かれているのは面白くないしね」

一瞬、何を言われたかわからなかった。口をあんぐりとあけて彼を見上げる様はさぞかし滑稽だったに違いない。
シモンは顔をそむけて肩を震わせている。せめてこちらを向いて笑ってほしかった。

「……あなたが書いたお話だよね?」
「そうだね」
「この物語の相手役にもモデルっているの?」
「どう思う?」

たしかに主人公の相手役となる男性は、主人公をからかう姿はシモンを思わせる部分もあったけれど。
基本的に無口で我儘で冷徹で、シモンにはーーすくなくともこの世界の彼には似ても似つかなかった。
そんな男性だからこそ、主人公に心をとかされていく過程から読者は目が離せないのだけれど。
そもそも、だ。

「……どうしてこういう小説を書こうと?」
「その質問は、最後まで読んでから改めてしてほしいかな」

物語は相手役の彼が主人公に告白しているところで終わっていた。
主人公のこたえは決まりきっている。
でも、あえてそれを描写しないことで余韻を持たせ読者が好きなように結末を思い描くことが出来る。そんな素敵な終わり方だった。

原稿には一通り目を通した。それでもシモンの意図が見えない。
ふと思い出す。そう言えば私は、今までこの物語の彼みたいに明確な言葉をシモンに伝えたことがあっただろうかと。
「そばにいるよ」とか「おじいちゃんおばあちゃんになっても一緒にいられたら嬉しい」とかは言った記憶がある。
好意は伝わっていると思う。それでも肝心の一言を言ったことは、まだ。
そっとシモンの様子を伺うと夜空にさそりの炎を投げ込んだような青白い熱が瞳に宿っていることに気づく。

「”きみの幸せを願っています。そして、きみのことを永遠に忘れられないだれかのことは、どうか忘れてしまってください”」

ふいにシモンが作中の男性のセリフを呟く。かの気難しい作家からの引用だった。
シモン自身の言葉じゃない。わかっているのに。心臓が早鐘のように鳴り響く。

「……返事を聞かせて?」

シモンは片手で私の左手をすくいあげて、羽が触れるかのような軽やかさで薬指に唇を落とした。
彼が聞いているのは原稿のことのはず。それなのに別の意味に聞こえてしまい、混乱する。勘違いしそうだ、こんなの。
それとも。勘違いしても、いいんだろうか。

「私、……」

言葉が続かない。
シモンの伏せられた長いまつ毛が震えた。まるで何かを期待しているかのように。
私はどう答えるべきなんだろう。彼はどんなこたえが聞きたいんだろう。
身体中の熱が顔に集まってくる。どくどくと首の脈動がうるさい。
けれど頭は変に冷静で、返す言葉はもう決まりきっていた。

「私の答えはね」
「うん」

こたえは、最初からこの胸の中に。シモンの物語の主人公と同じく。

「私も書く」
「……ん?」
「私もシモンってタイトルの物語を書くから、読んでくれますか」

シモンはきょとんと私を見る。冷や汗を流しながら私もおずおずと彼を見る。
束の間の沈黙が横たわった。
察しの悪い自分でもさすがに気づく。
(まちがえた)
きっとシモンの欲しかった言葉はこれじゃない。けれど。
シモンの肩がぶるっと一瞬揺れたと思うと、子どものような笑声で奥歯をかむように笑っている。

「……ふっ、もちろん。もちろん、読むよ……ふ、ふふっ」
「シモン」
「だってきみ、言うにことかいて、ふはっ」
「笑いすぎ!」

彼は格好を崩し、くしゃりと前髪をかきあげた。
きみと居ると本当に退屈しない、とかみしめるように呟く。

「じゃあ、約束しよう」
「うん。約束」

小指を絡ませ、未来に誓う。
ちゃんとこの気持ちをかたちにするから。
きちんとあなたに伝えるから。
だからどうか少しだけ。もう少しだけ待っていてね、シモン。

「それで本の話だけどーー」
「冗談だよ」
「はい?」
「知ってる? 今日はエイプリルフー……」
「11月ですけど!」

END

シモン先生が書いたシモン主が読みたーい!という勢いだけで書きました。 主人公の名前が「貞子」だったらどうするんでしょうか。恋のライバルが現れる続編の名前は「貞子vs伽椰子」になると思います。それはそれで読んでみたい。