未だ其れを知らず、ただ君を想ふ
わたし視点、シモン視点で話は進みます。デート「雨の中」「傾倒」、本編13章以降の匂わせネタバレを含みます。
わたしside
冷たい夜風が頬に触れる。深く息を吸い込めば残業で疲れ切った思考が幾ばくか冴えるような気がした。秋があっという間に過ぎ去ってすぐに冬がやってくる。
ある帰り道、たまたま通りかかったお店でひと目で気に入ったネクタイピン。迷わず「これを!」と近くにいた店員さんに声をかけた。商品確認や支払い対応に向かうのを見送り、改めてじっくりとそれを見つめる。
それは11月の誕生石が埋め込まれているというシンプルだが高級感のある素敵なネクタイピンだった。きっと彼によく似合うだろう。想像するだけでなんだか心が踊るから不思議だ。よく見つけた!と自分を褒めて、にこにこと上機嫌でラッピングまで終わるのを待った。
そして、心に秘めた淡い想いは閉じ込めて、日頃の感謝と純粋なお祝いの気持ちをこのプレゼントと一緒に彼へ贈ろうと決めていた。
彼の誕生日は日曜日。以前は土日も関係なくシンポジウムや研究、その他にも予定が沢山入っていると聞いていた。けれど当日に少しでも会える時間がないかと勇気を出して電話をかけた。
彼はいつも通りスマートにそしてとても優しい声色で「その日はちょうど予定がないんだ。それに君のお願いなら勿論喜んで。」と嬉しい言葉をくれる。
ダメかもしれないと諦めていたわたしは思わず「やった!」と心の声が溢れてしまって、クスクスと笑う彼の声に恥ずかしさで耳がひどく熱くなるのを感じた。
シモンは続けて知り合いからおすすめの場所を教えて貰ったから一緒に行こうと提案してくれた。彼の誕生日にどこか出かけることができるなんて!電話を切った後も興奮がなかなか冷めなかったのをとてもよく覚えている。
シモンside
その日、彼女の些細なお願いを聞くためにシモンは待ち合わせ場所に向かっていた。きっとサプライズを用意してくれているのだろう、わかりやすい彼女は先日、電話越しに緊張した様子で可愛いお誘いの言葉をくれた。
彼女が何を考えているのか、僕になんて答えて欲しいのか想像するのはとても容易いことだった。少し会うだけでもという彼女にもっと甘えてくれていいのにと不貞腐れたような気分になった。だから揶揄う気持ちと僅かな期待を込めて彼女をデートに誘った。
そんな事を思い出していると少し離れたところから彼女が駆けてくる様子が見て取れた。モノクロの世界に映り込む色彩。途端に自分の瞳孔が開いてその色を刻むように見つめる。
「シモン!久しぶり、元気だった?忙しいのに時間を取ってくれて本当にありがとう。」
そう遠慮がちにいう彼女はいつもよりおめかしをしたような様子が見て取れて、そんな健気さと愛らしさが彼女の色と相まって目に眩しい。
「こちらこそ、忙しいプロデューサーさんにお時間を取って頂き光栄です。今日はどうか僕にエスコートさせてくれませんか?」
少し戯けたような言い回しに彼女がクスッと笑いを溢す。僕に気遣う彼女じゃなくてこうやって無邪気な笑顔を向けてくれる彼女でいて欲しい。例えそれが限られた僅かな間だとしても。
そんな事を頭の隅で思いながら行こうか。と手を差し出せば自然と彼女の手が重なる。小さな手を一度、優しく包み込んで柔らかな手の甲に口付ける。驚いて頬を真っ赤に染める彼女。そのわかりやすい反応に思わず笑みが溢れてしまう。
さぁ、今日はどんな色を見せてくれるのだろうか?
わたしside
シモンに連れられてやってきたのは紅葉が見頃を迎えた観光スポットだった。日曜のよく晴れた良い天気だと言うのに人はそこまで多くはなく静かに心地よい自然を感じられる。
様々に色づいた森の中、生茂る木々の下から澄んだ青い空を見上げると赤と黄色のコントラストが美しい。到底届かないことはわかっているけれど思わず手を伸ばしてそれに触れたくなってしまう。
「とっても綺麗ね!小さい頃にお父さんと紅葉狩りに行ったことがあるんだけど…。ここは初めてだよ。シモンと一緒に来れてとても嬉しい。」
立ち止まり過去の記憶を思い返していたわたしは振り返って彼に話しかける。少しセンチメンタルになったわたしの言葉にシモンは優しく微笑んだ。
「それは良かった。僕も君とここに来られてとても嬉しいよ。」
穏やかに言う彼がとても愛おしく感じて胸がじんわり温かくなる。そのあと暫く2人で並び歩いていたのだが、わたしはシモンに贈り物をいつ渡そうかと考えている内に景色をみる余裕がだんだんと無くなっていた。
そんなわたしのギクシャクした様子に気づいたのか今度はシモンから楽しげに会話が始まった。
「なんだか今日はとても緊張しているみたいだけど、僕は何か期待しても良いのかな?」
意味深な台詞をサラリと言われて思わず頬が赤く染まる。
「うっ。そんなにわかりやすかったかな…。今日はシモンのお誕生日だからプレゼントをいつ渡そうかずっと考えていたの。」
もう素直に白状するしかなくてもっと雰囲気のいい時に渡せられないのかと頭の中ではぐるぐると反省会が始まっていた。でもやっと彼に贈り物を渡せるタイミングが来たのだ。覚悟を決めてバックから例のプレゼントを取り出して彼に手渡す。ここまで来たら自分の正直な気持ちを伝えよう。
「シモン、お誕生日おめでとう。生まれてきてくれて、わたしと出会ってくれて本当にありがとう。」
そう心からの言葉を伝えて彼を真っ直ぐに見つめる。その表情は見間違いでなければ少し眩しそうに目を細めてわたしを見つめていた。そして…わたしにはまだ到底理解できない複雑な感情が瞳の奥に渦巻いている。そんな気がした。しかし、一瞬にして彼の表情は温和でいつもの優しげな眼差しに変わっていた。
「ずっとそわそわしてたのはこれが理由だったんだね?おばかさん。とても嬉しいよ、ありがとう。」
彼はそう言って贈り物を丁寧に受け取ってくれた。やっとシモンに手渡せた達成感と喜びで気分がとても高揚する。無意識に頬が緩んでニコニコと笑顔になってしまう。
そんなわたしの頬を優しくて大きな手がそっと撫でるように触れた。突然のことに思わず目を見開いて彼を見るとその眼差しは深い慈愛に満ちた感情が浮かんで見えた。
わたしは静かに目を閉じてそれに沿うように擦り寄ってしまう。心地よい温かさが彼がここにいる事を感じさせてくれる。わたしはそれをシモンが悲しげな表情で見つめていることに気づくことは無かった。
そして…自分がとてつもなく恥ずかしい事をしていることに、ふと気付いてシモンから慌てて距離を取る。
「こっ、これは違うの。ずっと歩いてきたから眠くなっちゃっただけなの!それよりプレゼント開けてみて!きっと気にいると思うの!」
必死に言い訳をして彼の視線から逃れるように目を逸らす。シモンは真っ赤になったわたしをみてクスクスと笑っている。羞恥心で居た堪れない…。けれどなんだかとても良い雰囲気かもしれないと淡い期待がふわふわと膨らんでいた。
「ごめん、ごめん。僕が悪かったよ。今、開けてみるね。」
少しも悪びれていない様子の彼が嬉しそうに包みを開けるのをわたしはドキドキしながら見つめていた。
その瞬間。
強い風が吹いて真っ赤なモミジの葉が私たちの周りを舞い踊った。それはとても美しく儚くてしばらくの間、この世界に2人取り残されたようなそんな錯覚を覚えるほどだった。
しかし…。そんな感情とは別の何かが突然わたしを強烈に不安にさせた。舞い踊る唐紅がとてつもなく怖いと感じて思わず隣にいる彼のコートを掴んでしまう。怖いのに目の前の光景から目が離せない。そんなわたしを彼は包み込むようにそっと抱きしめてくれた。
「目を閉じて…少し休むといい。」
心地よい声にぐらりと世界が揺れる。身体には力が入らず自らの足で支えることができない。そしてまぶたの裏には走馬灯の様に今まで見たことがない彼の表情が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
儚げにわたしを見つめる瞳。寂しそうな顔。胸に強く手を押しあて酷く苦しそうな顔。散漫する薬。背筋が凍るほどの冷たい眼差し。
わたしはそんなシモンを抱きしめたいと思うのにどんどん遠く離れていく。そして静かに暗闇の中に溶けていった。
コトリと意識を手放した彼女はひと筋の涙を流していた。シモンはそれを優しく拭い取り、そっと目尻にキスをする。
「本当に馬鹿だな….」
ぽつりと溢れた言の葉は誰に向けたものなのか。それは役目を終えたモミジの様に誰にも知られず静かに堕ちた。
シモンside
トパーズの石言葉とは「友情、信頼、希望」どれを取っても偽りでしかない僕らの関係には到底相応しくないものだ。そんな事を露知らず無邪気に贈ってくれる哀れな彼女。
先刻、EVOLの影響を受けて意識を失った彼女は知人のツテで頼んでおいた宿の布団で静かに眠っている。頬は色付き始めた桃、唇は咲き始めた薔薇であるかのように鮮やかだ。
紅葉の群舞は贈り物をくれた彼女へのお礼とそして…実験を兼ねていた。強い風が吹いて葉が舞った瞬間に幻覚を見せたのだ。
それは酷く美しい光景を見せた後、人に恐怖心を植え付けるもの。その感情の扉を少しずつ叩けば彼女本来の力を目覚めさせる一歩になる。
けれど、彼女が今にも泣きそうな顔をしたから。無意識だろう。僕に頼りすがる彼女をみてしまったから。予定していたよりもはるかに短い時間で幻覚を解除してしまった。
これは想定外。
彼女と出会ってから時折痛む心臓。息が出来なくなるほどの強い痛み。彼女が僕に向ける無垢な眼差し、尊敬と信頼、僅かに垣間見れる別の感情、その全てがいつか彼女を酷く傷つける刃になる。
彼女が真実を知るとき、それは大いなる進化が現れた時だ。僕はその時を静かに待ち望んでいる。けれど僕の中に確かに存在している忌々しい感情というモノが彼女の瞳に映る虚像の僕自身を壊してほしくないと叫ぶ。
例えばこれから彼女が知るであろう冷酷な真実に償いをするとしたら。僕の心臓を抉り差し出せば彼女に赦しを貰えるのだろうか?
否、そんなはずあるわけが無い。いつかの劇作家のような言葉を並べてもこの空虚に漂う気持ちの置き場所は見つからない。
「僕は君を見つけることができた。けれど、それは君にとって酷く災難なことだろうね。」
静かに眠る彼女の髪を優しく撫でる。誰にも見つからないように、このままどこかに隠し閉じ込めてしまいたい気持ちといっそ今すぐにでも全てを壊したいような訳の分からない感情が心臓を叩く。
しばらくそうしていると彼女の可愛らしい睫毛が僅かに動いた。そろそろ眠り姫が目を覚ますだろう。驚く彼女をなんと言って丸め込もうかと考えて彼の口元はゆるりと三日月を描いた。
今日は僕の誕生日。もう少しだけ世界にも誰にも邪魔されずに2人で過ごせる時間をどうか許してほしい。
トパーズが埋め込まれたそれが日の目を見るのはまだまだ先のお話。
けれど彼にとって彼女が最愛であることを。彼女にとって彼が最愛であることをそれは既に知っている。
その運命に辿り着くまでこの2人が離れないよう、壊れないよう。ただ静かに祈るしかなかった。
言い訳したいことは山ほどありますが皆さまの想像力と補修力で少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

