水霜に変わるは静寂

written by ゆき 様

重大なネタバレになる内容はないかと思います。

「きみの部屋のベランダは大分賑やかになったね」
 ある日私の部屋を訪ねたシモンが、窓の外を見遣りながらの開口一番がそれだった。
「そ、そうかな。何となく成り行きでかな」
「くなっしーも元気そうだし、よかったよ」
 彼は羽織っていたジャケットを脱ぐと、嬉しそうに目を細める。“くなっしー”とは、以前ふたりで育てることになったクチナシのことだ。
「私ひとりの力ではちゃんとできなかったかも知れないから、シモンのお陰でもあるんだからね」
「そうかな?僕だって大分助けられたよ」
 と、彼は微笑みながら、
「ベランダはあとでゆっくり見せてもらうとして、まずはきみの案件を片付けてしまおうか」
「あ、そうだったね……」
 私はそこで漸く彼を家に呼び寄せた理由を思い出した。
 リビングに置いてあったカバンの中から紙の束を取り出しながら説明する。
「実は、次に取り上げようかと思っている企画を練っていたんだけど……」
 シモンはソファに体を沈めながら私の話を真摯に聞いてくれていて、
「……つまり、街頭インタビューだけでは心許ないと。そういうことだね」
 彼は企画書の表紙を軽くはじくと、そう答える。
「うーん……もっと具体的な例が欲しいというか……」
「この件については、僕が大学で生徒達にも聞いてみておくよ」
「え、でも、それじゃシモンの負担にならない?」
「これくらい問題ないよ」
 僕にできることはさせて、と彼は伏目がちに微笑む。その笑顔は私にいつも安心をくれるのだ。
「いつもシモンに甘えてばっかりで本当にごめんね……」
 それでも彼に頼りっぱなしなのは否めないので、口をついて出てくるのは謝罪の言葉ばかりだ。
「だって、ほら、シモンは忙しくて家に帰って来る日があまりないでしょう」
 私は更に続ける。特にここ最近は、研究所に篭りきりだと恋花大学の学生が言っていた。
「ああ、そのことか」、と彼は前置きをすると、
「気分転換を兼ねて、だから気にしなくていいから、ね?」
 シモンは私の鼻の頭を軽く叩き、
「まったく……。このおばかさんは謝ってばかりだね。まだ他にもあったんじゃないの?」
 このひとは私をどこまで甘やかせば気が済むのだろうか。申し訳ないと思いつつも、言葉を紡いだ。
「じゃあ次の撮影の打ち合わせもしてもいいかな」
 いいよ、と柔らかな口調で答えると、私が差し出した資料に目を通し始める。それから少し時間が流れて行き、沈黙に耐えられなくなったのは私の方だった。
「……ど、どうかな?」
 彼は顔を上げると、人差し指を頤に宛がい、そして思案顔になる。
「――そうだね。流れとしてはいいけど、あまり説明が長いと尺が足りなくなりそうだ」
「あ、やっぱり?」
 私は手もとにある同じ資料を見ればいいのに、無意識に彼の手にしているそれを覗き込んでしまっていた。
 はた、と気付いた時既に遅し。珍しく双眸を揺らめかせた彼と目が合ってしまう。
「ご……ごめんっ!」
「あ、うん……びっくりしたけど別に構わないよ」
 照れてはいないが、焦りの色は見える。――それだけは分かった。
 私は何とか軌道修正しようと言葉を繋ごうとするが、どうも上手い言葉が見つからない。
 そんな私の様子を見守っていたシモンは、
「きみは一体いつそういうテクニックを覚えたの?」
「て、テクニック??どうしたらそんな解釈に……」
 今度は逆にこちらが照れてしまう番だった。
 だってね、とふいに私の目をまっすぐに見つめると、
「僕に色々と教えてくれたのはきみだよ」
 彼は私の髪を耳にかけると、そう耳元で囁いてきた。 
 その艶を帯びた声色に否が応にも反応せざるをえない。私は心拍数が自然に上がっていくのを感じながら、
「でも、そ、そこまで教えて……というか、教えてはいないと思うんだけど!」
 特に耳が弱いというわけではないと自負していた筈なのに、その心地よい声にまるで翻弄でもされていくかの如く。次第に返事もしどろもどろになっていくのだった。
「忘れてしまったの?いけない子だね」
「だって、本当に思い当たる節がなくて」
 戸惑っている私に対して更に距離を詰めると、まるで一瞬だけ時が止まった気がした。少しずつ離れていく熱を名残惜しく思ってしまったのか、私はつい唇に触れて、まだわずかに残留する感触を確かめてしまっていた。
 彼はそんな私の様子を目を細めて眺めていたか否や、ぐい、と些か強引に手首を掴んで引き寄せた。
「――っ?!」
 テーブルの上に危うく肘をつきそうになって痛みを想定したが、運良く散らばった資料の束がクッションになってくれたみたいだった。
 彼の名前を呼ぼうとしたが、言葉を推し戻されるようにさっきの口吻けが嘘のような、所謂“彼らしくなく”唇を塞がれる。
 私は息を逃がすのに必死で、彼の意図が果たして愛情から来るそれなのか掴めないまま、完全に受動的だった。
 一方的に注がれるその感情をもう限界近い……というところで、ようやく解放された頃には完全に息が上がっていた。
「シモン……」
 絞りだすようにその名前を呼ぶと、彼も同じような状況なのか、額から汗が滲んでいる。
「きみとなら……いいかも知れない」
 果たして、その言葉の真意のほどは。それでも、私は心の中にほんのりと芽生えてきている気持ちの正体を知りたくなってきてしまってぽつり、と呟いてしまったのだ。
「私はもっと熱に浮かされてみたい……」
 シモンはゆるりと微笑むと、私の手を取り己の顔の前に近付け恭しく口吻ける。それが始まりの合図にも思えた。

 冬は静かに訪れた。やがて、辺り一面の景色をも変化させるだろう。だがそれでも、心の奥に宿った小さな灯火は静かに燃え、そして残留する。
 私が今一度彼の深い色の瞳を覗き込むと、彼は微笑んで。それから――。

 ベランダの向こうでは新しい雫が生まれ、静かに落ちていく。それと同時に彼と他の仲間たちが見守ってくれているような気配を感じたのだった。

初めまして。今年もこのように、教授のお祝いに参加させていただけて大変嬉しく思っております。
教授の幸せをいつまでも願っております。